数々の有名作品を世に送り出した夏目漱石。
『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』なんかは誰でも名前を聞いたことがあると思います。
そんな夏目漱石の作品の中で、前期三部作と後期三部作と呼ばれる作品があります。
どうしてそう呼ばれるようになったのか、どういう意味なのかを紹介していきます。
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前期三部作と後期三部作とは?
夏目漱石の前期三部作と後期三部作とは、それぞれ同時期に作られ、かつ共通点のある3つの作品を称した言葉になります。
前期三部作は、
〇『三四郎』(1908年)
〇『それから』(1909年)
〇『門』(1910年)
の三作品。
後期三部作は、
〇『彼岸過迄』(1912年)
〇『行人』(1912年~1913年)
〇『こころ』(1914年)
の三作品となります。
前期三部作の内容とテーマ
前期三部作は、上記したように『三四郎』『それから』『門』の三冊。
本好きなら知っているかもしれませんが、そこまで認知度は高くない気がします。
私も夏目漱石を読もうと思うまでは『三四郎』しか知りませんでした。
それぞれ一つの作品として読んでもおもしろいですが、この三冊のつながりを意識して読むともっと面白く感じることができます。
『三四郎』は、熊本の田舎から上京してきた青年・三四郎が主人公の物語です。
まだ純朴であり女性に対する耐性を持たない三四郎ですが、心惹かれる女性と出会い、学業に専念しようと思っても女性のことが頭から離れません。
そんな自分の感情を持て余したまま日々を過ごす三四郎ですが、積極的に行動に移すこともできません。
そうしている間に、女性は別の男性と結ばれることになり三四郎の恋の花は散ってしまいます。
『それから』は、学校を卒業後も働かずに親の援助を受けて生活をしている代助が主人公。
過去に想いを寄せていた女性がいたが、そのときの状況から、自分とではなく、女性が友人と一緒になるように行動をしてしまいます。
それから数年ぶりに友人と女性が東京に戻ってくるが、暮らしぶりも夫婦仲もよくない。
自分だったらもっと大切にするのに……と考えてしまう代助。
友人に黙って二人で密会をする中で、代助は友人の妻であるその女性と一緒になることを決意します。
物語は、女性と一緒になった代助が、これからの暮らしのために仕事を探しに行くところで終わりを迎えます。
前期三部作最後の『門』では、宗助と御米の夫婦の生活が中心となります。
変化を嫌い地味な生活を日々過ごしていくこの夫婦。
宗助の弟の小六から見ても、どうにも明るい様子が見られず、消極的な家庭。
でもそこには理由があります。
御米は元々、宗助の親友の内縁の妻でした。
それを宗助は奪い、大学も中退し、親も親戚も捨てて一緒になったのです。
そのことに対する罪の意識が何年たっても宗助と御米を苦しめています。
簡単ながら三作品のあらすじを紹介しましたが、この三作品がつながって見えることはわかったのではないでしょうか。
『三四郎』⇒失恋
『それから』⇒略奪愛
『門』⇒略奪愛からのその後
特に『それから』と『門』は登場人物こそ違いますが、『それから』の最後で、どうなるんだろうかと思っていたその後の展開がそのまま描かれているかのような印象を受けます。
後期三部作の内容とテーマ
前期三部作では、恋愛にまつわる一連のストーリーがありました。
では後期三部作もそうなのかというと、そこには特にそういったつながりは見えません。
『彼岸過迄』『行人』『こころ』の三作品が後期三部作とまとめて呼ばれるのは、共通するテーマがあるからです。
まずは三作品のあらすじから。
『彼岸過迄』は、須永と千代子という男女の関係を巡る話になります。
二人は親同士のつながりもあり、小さい頃から仲が良かったのですが、須永の母親は、須永と千代子をどうにか結婚させたいと考えていました。
千代子の親にもその話をするくらいで、当然須永も周囲にそういう話があることには気づきます。
千代子のことをいい女性だとわかっていながらも、千代子とは結婚できないという須永。
そこには千代子が須永から見てとても強い女性であり、自分では満足させることができないという恐れがありました。
しかし、須永は、自分は結婚する気はないというのに、千代子に別の縁談が持ち上がると嫉妬の炎を燃やしてしまいます。
『行人』は、『彼岸過迄』よりもさらに一歩人の内面に焦点を当てた作品になります。
主人公は二郎という青年。
ある日、兄の一郎から、一郎の妻と一晩過ごして、彼女の貞操を確かめてほしいと頼まれます。
一郎は、妻が弟の二郎のことが好きなのではないかと疑っていたのです。
二郎は、兄の妻なのだからそんなことはありえないといいますが、一郎は納得できず、結局二郎は兄嫁と出掛けることになります。
一郎が悩む原因となっているであろう二郎が家を出ることになってからも、一郎のそうした様子は変わらず、家族全体が困惑をしてしまいます。
気晴らしに一郎の友人Hが一郎を旅行に連れ出しますが、Hからは、一郎の苦悩をつづった長文の手紙が届けられます。
『こころ』は、語り手である私と先生についての物語です。
私は、謎めいた先生に心惹かれ、親しくしていく中で、先生が持つうす暗い過去と先生の苦悩を知っていきます。
先生は若いころに親戚に裏切られ、人間に対する不信を持つことになります。
そんな先生でしたが、数少ない心を許せる相手がいました。
それが親友のKと下宿先のお嬢さんでした。
一緒に暮らしていくうちにお嬢さんを想うようになっていく先生でしたが、親友のKもお嬢さんのことを気にかけていることに気づいてしまいます。
かつて親戚に裏切られて傷ついた先生でしたが、今度は先生自身がKにお嬢さんを取られまいと、Kに対して裏切り行為をしてしまいます。
そのことにより、先生は誰にもそのことを話すことができず、苦悩をうちに秘めたまま生きていたのでした。
さて、なんとなくどういう共通点があるのか感じられた人もいるかもしれません。
後期三部作では、エゴイズムとそれに伴う苦悩について描かれているといわれています。
正直、私自身は、この三作品を読んだときに特にそういった点には気づかず、あとで後期三部作と言われていると知ってからもピンときませんでした。
それくらいエゴイズムってよくわからないものなんですよね。
エゴイズム、よくエゴと略していいますが、あまりいい印象のある言葉ではないですね。
利己主義という言い方もします。
自分のことが中心で、まずは自分の気持ちややりたいことを優先するといった印象の言葉です。
ただ、この三作品とも、そうした人間のエゴを持ちながらも、その気持ちに対して葛藤し、苦悩している姿が描かれています。
確かにいずれも、エゴから来る言動はあるかもしれませんが、そこに悩み葛藤していくところが人間であり、それ自体は善とも悪ともいえないと思わされる作品群でした。
前期・後期三部作の読む順番はどうしたらいい?
さて、前期三部作と後期三部作であわせて6冊あります。
どういう順番で読むのが一番いいかと言えば、テーマを意識するなら、出た順番で読むのがいいでしょう。
特に前期三部作は、失恋⇒略奪愛⇒その後の生活となるので、そういう視点で順番に読むことでより深い理解が得られます。
ですので、前期三部作を読むなら、『三四郎』⇒『それから』⇒『門』の順番です。
一方で後期三部作。こちらも順番にという人もいますが、一つ一つの作品が独立しているので、どの順番で読んでも楽しむことができます。
私は『こころ』を最初に読みました。
当時は後期三部作という言葉も知らなかったのですが、順不同で読んでもどれも興味深く読むことができました。
ただ、夏目漱石の作品も、古いものから少しずつ作風が変わっていくのがわかるので、そうした点から、出た順番で読むのも楽しいと思います。
ということで、
〇前期三部作は『三四郎』⇒『それから』⇒『門』の順番
〇後期三部作はどれからでもおもしろい!
〇時間に余裕があるなら、全部出た順番に読むのがよい。
というのがこの作品群を読み方になります。
おわりに
夏目漱石の作品は、それ自体でもとても楽しく読めます。
でも、こうして、前期三部作、後期三部作とつながる部分を知ることでより深く読めていいなと思います。
夏目漱石を始め日本の文豪に対しての研究ってかなりされていて、解説本もたくさんでています。
まずは、自分で夏目漱石の本を読み、そのあとそうした解説本を手にしてみるのもいい楽しみ方だなと感じています。