夏目漱石

人生に片付くものはない。夏目漱石『道草』のあらすじと感想。

読み終わったとき、どんな気持ちでこのタイトルにしたのかと想像してしまいます。

今回読んだのは、夏目漱石の『道草』です。

『道草』は、完成している夏目漱石の長編小説として最後の作品になります。

次作の『明暗』は未完のままでした。

夏目漱石の自伝的位置にある小説でもあり、夏目漱石を知る上ではとても重要な一冊になります。

ここでは『道草』のあらすじや感想を紹介していきます。

Contents

『道草』のあらすじ

主人公の健三は、教師をしながら妻・御住と二人の娘とともに暮らしていた。

ある日、かつての養父であり、家族から絶縁された男性・島田を見かける。

近所で見かけたことに、少し嫌な感じを持ちながら、喘息もちの姉・御夏に相談に行った。

すると、姉からは、島田のことは知らん顔しておけと言われ、毎月渡しているこづかいの増額を要求される。

健三も教師や執筆で稼いでいるものの裕福というわけではなく、勝手にこづかいの増額を請け負ったことで、健三と御住の間にも険悪なものが生まれる。

 

ある日、島田の知人・吉田が健三宅を訪問し、年老いた島田の窮状を訴え金を要求する。

すでに縁を切った関係であり、健三は断るが、吉田はなかなか引き下がらない。

後日、島田が吉田に連れられ訪問することになった。

島田は妙に丁寧な態度で健三に接していたが、それがまた不快であった。

それ以降、島田は時折姿を現してはお金を無心するようになっていった。

健三は面倒に思うが、そのたびにわずかなこづかいを与えて追い払うのであった。

兄・長太郎の家に行った御住からは、長太郎が島田のことで心配していると聞かされ、それもまた健三のいら立ちの要因となった。

御住は御住で、なんとか家計を助けようと着物を質に入れるなど手を尽くしていた。

健三もまた、執筆を増やすなどして働き収入を増やすが、お互いに気持ちを寄り添わせることはない。

健三は、御住にやさしい言葉はかけず、御住も、健三がのぞむ態度を見せず、夫婦関係は冷えていった。

 

しばらくして、島田は比田という男を通して、健三の島田家への復籍を要求していた。

とんでもないことだと憤る健三。

相談の結果、比田が代表して島田の要求を断ることになる。

そんな中、御住が3人目の子を妊娠する。

島田との関係はそれからも続き、少しずつ島田の要求する金額も増えていっていた。

身重となり、ヒステリーも出る御住は、出産のことで不安なところに、島田のこともあり、健三と互いに非難し合ってしまう。

突然、今度は島田の前妻で健三の養母・御常が健三に会いに来た。

御常もまた、健三に金の無心をするのであった。

断りつつも帰り際に、彼女に五円紙幣を渡す健三。

御住は、今後は島田だけでなく御常からも金を要求されると健三を非難する。

 

しばらくすると、今度は、御住の父が、金を借りるための保証人になってほしいと頼みにくる。

健三は保証人になることは断るが、友人の知人から四百円を借りて御住の父に渡す。

働いても働いても、手元のお金がどんどんなくなっていくことに嫌気がさす。

 

御住が三人目の子どもを産む。

生まれた子はまた女の子で、健三は少し失望する。

健三は家族や親族、知人との関係が全て片付かずにいることに思いを巡らす。

 

年末が近づく中、島田は年を越すためのまとまった金が必要だと健三に頼み込む。

だが、当然それを健三は拒否。

島田はもう来ないと言って帰ったが、年の暮れが近くなり、島田の使いが健三を訪問した。

彼は島田が持っている書付を買い取って、島田と縁を切らないかと持ち掛けてきた。

書付は健三が実家に復籍する時に、「今後互いに不義理不人情な事はしたくない」と島田に頼まれて書いたものだ。

健三は百円なら出してもいいと答える。

健三は原稿を書いて百円を作り、比田に頼んで島田に渡してもらう。

比田と兄が健三宅を訪れ、島田からの絶縁の誓約書と例の書付を受け取った。

御住は島田との関係が片付いたと喜ぶが、健三は、

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。

一遍起った事は何時までも続くのさ。

ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」

(夏目漱石『道草』より)

片付くものなんてほとんどない世の中

人生ってなにかと面倒なことに充ち溢れています。

自分一人で誰ともかかわらずに生きていくことができる人っていないですからね。

どうしたって誰かと関わりますし、そこには人間関係もしがらみも生まれます。

『道草』は、そうしてからまったものから逃れられずに、日々をもやもやとした気持ちとともに生きている姿が描かれています。

読者からすると、

「そんな養父なんて相手にしなければいいのに」

とか、

「こづかいの増額を望むお姉さんってなんて図々しい」

なんて思ってしまいますが、当事者としてはそう簡単な話ではないのでしょう。

そこにはなにがあるのか。

それは自尊心であったり、周囲からの自分への評価であったりするのかもしれません。

体裁が悪いことを嫌がる人って多いですもんね。

自分でも、この関係はない方が楽だと思っていても、それを切ることができなくなるものです。

私自身も振り返ってみると、必要ないと思いながらも、切ることができないものってやはりあります。

問題が起きるたびに、その場その場でほころびを直したり、解決に向けて動いたりしますが、それですべて終わりとなることってほとんどない。

人生とはそうした連続なのかもしれません。

面倒なことをやめることの難しさ

「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」

(夏目漱石『道草』より)

本当にこのとおりで、世の中ままならないものです。

古くからの友人との関係。

職場の先輩や上司との妙な付き合い。

昔からある慣習。

面倒な親戚付き合い。

「面倒だからぜんぶいらない!」

そう言えたらどんなに楽か。

でも、そうするにはこれまで培ってきた常識なんかも一緒に投げうたなければいけなくなります。

そうした付き合いをするのが、一般的なんだろうなという考えはぬぐいされませんし、こちらが離れようとしても、つきまとってくるものです。

だから結局、解決することなく、あいまいなままそこに存在し続けるのでしょうね。

本当の意味で自由になるというのは、不可能なのかなと感じてしまいます。

おわりに

夏目漱石の『道草』は、小説としてはそこまで楽しいわけではありません。

同じ夏目漱石の作品なら、『こころ』とか、『行人』とかの方がはるかに読んでいておもしろい。

それでも、人生の悲哀のようなものを感じますし、学ぶことは多い一冊でした。

人生とは道草の連続なのでしょうね。

しなくてもいいことに関わっているうちに、気づけば日が暮れていく。

ただ、それがすべて悪いわけでもない。

道草自体を楽しむこともあれば、それが人生に彩りを与えることもあります。

簡潔なだけの人生なんてありません。

ならそれを楽しめる人間でありたいなって思います。