「吾輩は猫である。名前はまだ無い」
とても特徴的な冒頭で、誰もが聞いたことがあることでしょう。
今回紹介するのは、
夏目漱石の『吾輩は猫である』です!
タイトルは知っているのに読んだことがない!
という人も多いのではないでしょうか。
かくいう私もそんな一人でした。
でもやはり人生に一度は読んでおかないとと思い手を伸ばしたらこれがおもしろい!
発刊されたのは1905年!
100年以上前に書かれた作品とは思えません。
ここではそんな『吾輩は猫である』のあらすじや感想を紹介していきます。
Contents
『吾輩は猫である』の登場人物
吾輩(主人公の猫)
『吾輩は猫である』の主人公の猫。
名前をいつまでたってもつけてもらえない。
一人称は「吾輩」であり、『吾輩は猫である』の語り手である。
薄暗い場所にいるところを書生に拾われるがすぐに捨てられ、あてもなくさまよっていたところ、珍野苦沙弥の家へとたどり着く。
人間の生態を鋭く観察し、ときには批判し、ときにはあきれ、やがて憧れをいだいていく。
お正月には、「吾輩」を描いた年賀状が届くこともあり、そうしたときは少し得意げになってしまうことも。
三毛子
隣宅に住む二絃琴の御師匠さんの家の雌猫。
主人公である「吾輩」のことを「先生」と呼ぶ。
琴の先生の家の猫だからか、口調もしぐさも上品な猫である。
「吾輩」も三毛子に対して恋心をいだいていた。
しかし、物語の序盤で風邪をこじらせて亡くなってしまう。
「吾輩」が自分を好いていることに気付いていない。
車屋の黒
大柄な雄の黒猫。
車屋の猫であることを誇りに思っていていつも強気な態度。
江戸っ子のような口調と、よく考えない言動で乱暴者。
いわゆるガキ大将のような猫である。
体が小さかった「吾輩」にもっといいものを食べなくちゃいけないと説教をすることも。
黒は、自分でエサを取りにいって満足いくまで食べていたが、ある日、魚屋に天秤棒で殴られてしまい、足が不自由になる。
珍野苦沙弥(ちんの くしゃみ)
「吾輩」の飼い主で、「吾輩」は主人と呼んでいる。
職業は文明中学校の英語教師。
とても偏屈で頑固。
一度言い出すと理屈をこねては主張を曲げないところがある。
一方で飽きっぽいところもあり、いろんな趣味に手を出してはすぐにやめてしまう。
健康のために、毎日「タカジアスターゼ」という薬を飲んでいたが、それもあるときから急に、「効かない」と言い出し、妻が飲むように言っても頑なに飲もうとしなかった。
また胃が弱くてノイローゼ気味でもある。
そんな苦沙弥だが、妻と3人の娘がいる。
わからぬものや役人、警察といったものをありがたがる癖がある。
迷亭(めいてい)
苦沙弥の友人。
いつもホラ話をして相手の反応を見るのが趣味。
苦沙弥はしょっちゅう迷亭にだまされている。
話が長くよくこんなに嘘八百を並べ立てられると感じずにいられないが、その分、とっさにその場に合わせて話ができるほど弁が立つ。
水島 寒月(みずしま かんげつ)
苦沙弥の元教え子の理学士で、苦沙弥を「先生」とよぶ。
金田富子に演奏会でひとめぼれをする。
周囲からの評判も良く好青年。
苦沙弥は元教え子だからか寒月に対してわりと上から目線。
金田(かねだ)一家
主人は近所の実業家。
苦沙弥も金田もお互いによく思っていない。
金田の妻である鼻子は、寒月と娘の富子との縁談について相談するために苦沙弥を訪れる。
しかし、態度が横柄でとうぜん苦沙弥の嫌うところであった。
鼻が特徴的で「吾輩」からも、苦沙弥の周囲の人からも鼻を揶揄されることがしばしば。
『吾輩は猫である』のあらすじ
苦沙弥の家で飼われることになった「吾輩」
物語は「吾輩」の「吾輩は猫である。名前はまだ無い」の有名な言葉から始まります。
薄暗い場所にいたところを書生に拾われるも、すぐに捨てられ、珍野苦沙弥の家に迷い込んでそのまま飼われることに。
主人である珍野苦沙弥は英語教師。
しかし、家に帰ると書斎にこもって出てこない。
勉強しているのかと思いきや、勉強する振りをして寝ています。
教師とはこんなことで勤まるとはたいそう楽な仕事、猫にだってできると感じる「吾輩」。
こんな風に序盤は人間を批評していた「吾輩」。
書生のことを、
「書生というのは人間中で一番獰悪な種族」
と言ったり(書生はときどき猫を捕まえて煮て食うらしい)、
「元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来ていじめてやらなくてはこの先どこまで増長するか分からない」
と評したりと、人間のわがままな部分や身勝手な部分を物語で語っています。
「吾輩」と猫たち
「吾輩」は珍野家でごろごろしたり、近所をおさんぽしたりと猫特有の気ままな生活を送っています。
でも、「吾輩」は猫である以上、猫としての交友関係も欠かせません。
車屋の黒はちょっと乱暴者のガキ大将気質。
ねずみを取ることが自慢で、まだねずみを一度も取ったことがない「吾輩」をばかにします。
いつも強気な黒でしたが、あるとき魚を盗もうとして魚屋に天秤棒で叩かれてしまい足が不自由になってしまいます。
「吾輩」が気になるのは、二弦琴の師匠のお宅にいる三毛子です。
近所でも美貌家として評判の猫で「吾輩」もひそかに想いを寄せています。
嫌なことがあれば三毛子のところに行っていやされる「吾輩」。
ですが、ある日三毛子は風邪をこじらせてあっという間に亡くなってしまいます。
二弦琴の師匠は大変悲しんでお坊さんにお経をよんでもらうほど丁重にお見送りをします。
「吾輩」も落ち込んでしまい、外出するのも億劫になってしまいます。
それ以外にも、軍人の家の白猫や、弁護士の家にいる三毛猫といった猫たちも登場します。
人間と同じように交友関係から大きな影響を受けて「吾輩」も成長していきます。
主人の苦沙弥とくせのある来客たち
物語の中盤は、苦沙弥と苦沙弥を訪れる多くの来客たちとのやり取りから構成されています。
特にストーリーがあるというよりは、生活の一場面一場面をつなげていった内容なので、読んでいて少し長く感じる部分です。
主人の苦沙弥は中学校の英語教師で、学校から帰ってくると終日書斎に籠もりっきりでほとんど外に出てきません。
しかし、そんな偏屈な苦沙弥ですが、意外と来客が多いのです。
友人で美学者の迷亭はほら話をするのが大好きで、苦沙弥もしょっちゅうだまされています。
人の家に勝手に上がり込んで風呂に入ったり、自前のそばを持ってきて家で食べたりとやりたい放題。
苦沙弥の教え子の水島寒月は、首縊りの力学や蛙の目玉といった変わった研究をします。
趣味のヴァイオリンを通じて、実業家の金田氏の令嬢とお互いにひとめぼれをします。
それを受けて、金田の奥様が苦沙弥のところへ押しかけてきたり、金田と苦沙弥で嫌がらせをしたりとひと悶着。
しかし、結局、寒月が結婚したのは、金田の令嬢ではなく地元の女性。
金田の令嬢と結婚すると思っていた苦沙弥はびっくりです。
金田の令嬢は勤め先で評判のいい多々良と結婚することになりました。
「吾輩」の最後
二人の結婚を祝い、人間たちは大いに盛り上がります。
「吾輩」は、そんな中、そう遠くない未来に胃病で死ぬ主人のことを考えていました。
死ぬのが定めで生きていても役に立たないのなら、早くあの世へ行った方が賢いのかもしれないなんてことを考え、少し物悲しい気持ちに。
憂さ晴らしに人間が飲み残したビールを飲んでみる「吾輩」。
不味いと思いながらもビールを飲んでいると不思議と気分は高揚していきます。
しかし、フラフラと歩いているうちに足を踏み外して、落ちた先は水かめでした。
脱出しよう手を伸ばすけれど体の小さい「吾輩」は出ることができません。
諦めた「吾輩」は、自然に任せ最後につぶやきます。
「吾輩は死ぬ。死んで此太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。有難い、有難い。」
猫の視点で見る人間の営み
『吾輩は猫である』と一番の特徴は、猫の視点で物語が描かれているところです。
いまであれば人間以外の視点による物語もめずらしくはありませんが、発刊当時からすればとても画期的な表現方法でした。
この「吾輩」という一人称がまたいい!
どうにも「吾輩」というとちょっと偉そうな雰囲気も出ますよね。
でもちょっと抜けている部分も多い「吾輩」なのでそれが「吾輩」をより魅力的にみせてくれます。
「吾輩」からみると、苦沙弥を始めとする人間の生活は変なところがいっぱいです。
人間ではない猫という立場から人間を批評する、自分たちの生活もほかの生き物から見たらこう映るのかなというのが興味深い。
でも「吾輩」はどこまでいっても猫というわけでもない。
自分自身を珍野家の家族の一員として扱ってもらいたがるし、人間のすることにも憧れを持っています。
猫であるのに人間であるかのようにふるまい、でも人間ではないから猫としての視点も持つ。
こうした矛盾もまた物語をよりおもしろくさせているのかなと思います。
正月に「吾輩」が得た4つの真理
正月を迎えた珍野家。
主人は苦沙弥はあいかわらずの偏屈ぶりで、正月の客の相手もしたくなければ外出するのも嫌がります。
偏屈と書きましたがでも割と私も正月はそうかもしれません。
正月なので苦沙弥は雑煮をもそもそたくさん食べます。
それを見た「吾輩」も、もちというものに興味を惹かれ、苦沙弥がいなくなったのをチャンスと、おわんに残ったもちにかじりつこうとします。
このくだりで「吾輩」は4つの真理を得たといいます。
一つ目は、
「得難き機会はすべての動物にして、好まざることをも敢てせしむ」
いざもちを食べようとするが、でもよく考えたらそんなに食べたいものには見えない。
でも、たとえ好まないことであっても、この機会を逃しては次いつ食べられるかわからない。
だから食べるのだというのです。
その結果、餅はすでに固くなっていておわんからとれない。
そして「吾輩」の口にもへばりついて外れない。
結局、戻って来た珍野家のみなに笑いものにされてしまうわけですが、その中で得た残りの3つの真理が下記。
「すべての動物は直覚的に物事の適不適を予知す」
「危きに臨めば平常なし能わざるところのものを為し能う。之を天祐という」
「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」
いずれもよくよく考えればたしかにそのとおりだなと思わされる言葉ですね。
おわりに
最初にも書いたように『吾輩は猫である』は、1905年に発刊された日本の名作です。
100年以上たった今も読んでみておもしろいというのはすごいことです。
時代的なものもあり、今は使われていない言葉もありますが、それでも十分楽しむことができます。
人間のおろかな部分と、大切にしていきたい部分とがうまく入り交ざって描かれているこの作品は、たしかに時代を経ても評価されるものだと感じます。
こうした有名な作品というのは、知っていながらもなかなか手が伸びないものですが、有名なのにはそれなりの理由があります。
ぜひ一度手に取って読んでみてもらえたらなと思います。
私も次は『こころ』や『坊ちゃん』あたりに手を伸ばしてみます。