〈ベルーフ〉シリーズ

『王とサーカス』米澤穂信に学ぶ報道の在り方と信念

「自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ」(『王とサーカス』米澤穂信)

この言葉を聞いたときに、

「そんなことはない!」

と断言できる人間はどれくらいいるだろうか。

そういう私も、そうであってはいけないと思いながらも、否定することができないでいる。

 

今回紹介する小説は、米澤穂信さんの『王とサーカス』です。
『王とサーカス』は2015年に東京創元社から出版されており、

『このミステリーがすごい!2016年版』国内編 第1位
〈週刊文春〉2015年ミステリーベスト10/国内部門 第1位
「ミステリが読みたい!2016年版」国内篇 第1位
『2016本格ミステリ・ベスト10』国内篇 第3位

と評価の高い作品でもあります。

本作は2004年に出版された『さよなら妖精』に登場した太刀洗万智を主人公とする〈ベルーフ〉シリーズと呼ばれ、『さよなら妖精』から10年後に設定されています。

『さよなら妖精』はその1作で完結しており、〈ベルーフ〉シリーズの原点と言われていますが、内容が続いているというわけではありません。

本作は〈ベルーフ〉シリーズの2作目である『真実の10メートル手前』という短編の間に起きた事件を描いています。

Contents

『王とサーカス』のあらすじ

2001年、新聞社を退社した大刀洗万智は、知人の雑誌編集者から海外旅行特集の仕事を受け、事前取材のためネパールの首都・カトマンズへとやってきた。

宿泊するトーキョーロッジには、日本人の元僧侶の八津田とアメリカ人大学生のロブ、インド人の商人・シュクマルが泊まっていた。

太刀洗は現地で知り合った少年サガルにガイドを頼み、穏やかな時間を過ごそうとしていた矢先、王宮で国王をはじめとする王族8人が皇太子に殺されるという大事件が勃発する。

街に不穏な空気が漂う中、太刀洗は取材を開始する。

大刀洗は、トーキョーロッジの女主人・チャメリの紹介で、事件当日に王宮の警備にあたっていたラジェスワル准尉と面会をすることとなった。

指定されたクラブジャスミンに赴いた大刀洗であったが、ラジェスワル准尉は、国王の死という国の悲劇を他国民の娯楽のために伝えるつもりはないと取材を拒否する。

翌日、記者としての在り方に疑念を持ちつつも取材を続ける太刀洗は、警官隊の民衆への発砲と粛清から逃れて行き着いた空き地で遺体を発見する。

遺体は、背中に「INFORMER」(密告者)と刻まれたラジェスワル准尉であった。

なぜ彼は殺されたのか。

遺体に刻まれた言葉の意味とは。

疑問と苦悩の果てに大刀洗が辿り着いた痛切な真実とは?

実際に起きたネパールの事件

『王とサーカス』の題材となっている王室の事件は、実際に2001年に起こったことです。

2001年6月1日にネパールの首都カトマンズ、ナラヤンヒティ王宮でディペンドラ王太子が父・ビレンドラ国王ら多数の王族を殺害したとされる事件です。

本作にも出てきますが、犯人とされているディペンドラ王太子は、事件直後、危篤状態のまま名目上、国王に即位し、その3日後に死亡しています。

しかし、事件に関する不自然さ、矛盾などからディペンドラが真犯人かどうかは疑問視されており、真相は不明のままとなっています。

報道の意味と価値とはなにか

『王とサーカス』を読んでまず感じるのは、

「報道とはなんなのだろうか」

ということです。

普段ニュースを見て、日本や世界でどんなことが起きているのかを知るために必要ではある。

とはいえ、本当に必要なことを報道番組から得ているかは疑問である。

 

冒頭でも紹介した作中の言葉、

「自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ」

(『王とサーカス』米澤穂信)

これは、ラジェスワル准尉が大刀洗に放った言葉です。

かつてネパールでの子どもの死亡率が取り上げられた。

これはいけないと世界が支援をして子どもの数が増えたが働く場所がない。

劣悪な環境ではあるが絨毯工場で働くことになった子どもたちに、今度はこんな環境で働かせてはいけないと工場が閉鎖され、子どもたちは生活をする術を失った。

他国の勝手な介入にネパールは翻弄されてきた……と。

 

私たちも報道番組を見ますが、果たして真の意味でその事件を、事実を受け止めているのだろうかということに疑問を持ちます。

報道番組は、もちろん私たちに事実を伝えるという点では意味があり必要なものです。

ただ、その本来の意味を発する側も受け取る側も考えなければならないのだと気づかされます。

悲劇は消費されていくものなのか

『王とサーカス』では、ラジェスワル准尉は、王室の事件を報道しようとしている大刀洗に、この国を他国の娯楽とするつもりはないと断言します。

この事実を記事にして伝える必要があるとする大刀洗に、

「だがそれは本当に悲しんでいるのではなく、悲劇を消費しているのだと考えたことはないか?飽きられる前に次の悲劇を供給しなければならないと考えたことは?(『王とサーカス』米澤穂信)

と報道の在り方について問いを投げかけます。

実際に私たちが目にする報道番組でも、一つの事件をあえて興味を引くように刺激的に報じていると感じる部分があります。

司会もコメンテーターも視聴者の感情をあおるような発言をし、また次の悲劇を報道していく。

見ている私たちも、そういった内容を求めているのかもしれません。

 

本作を読みながらそれ自体が悪いことではないですが、それが当たり前になり、本当に娯楽に成り下がってしまったとき、世界中の悲劇がただ消費されていくだけになるのかと考えると悲しい気持ちにもなります。

報道は、知識の付与であったり、警鐘を鳴らしたりと必要なものですが、その在り方については考えなければならないのだろうと感じます。

おわりに

この『王とサーカス』とその次の作品である『真実の10メートル手前』では、報道の在り方について問題提起がなされています。

単純に物語としても面白いですが、自身の思考が転換する一つのきっかけともなる小説。

さらに言えば、そうした報道を見る側の姿勢についても問われているのだろうと感じます。