〈古典部〉シリーズ

米澤穂信『愚者のエンドロール』愚者とは誰か?古典部シリーズ第二作目

青春時代というものは、自分のあり方を何度も問い直すもの。

自分に何ができるのか。

周囲の評価と自分の評価の違いに戸惑うことも。

 

今回紹介するのは、米澤穂信さんの、

『愚者のエンドロール』です!

 

米澤穂信さんの<古典部シリーズ>の二作目になります。

前作『氷菓』で文集の謎や33年前の事件の真相を解き明かした古典部。

神山高校文化祭に向けて動く中で新しい問題が舞い込んできます。

今回もネタバレがありますので、読む際はご注意願います。

Contents

『愚者のエンドロール』のあらすじ

アバンタイトル

プロローグ部分になります。

チャット内での3つの会話によってこの章はなりたっています。

4人の人物がチャットを行っていますが、それぞれ、

【名前を入れてください】⇒入須冬美

【まゆこ】⇒本郷真由

【L】⇒千反田える

【わ・た・し♪】⇒折木供恵

となります。

試写会へ行こう!

高校一年生の夏休みも残すところあと1週間。

神山高校文化祭に向けて、文集『氷菓』の作成を行う古典部メンバー。

 

部室に集まり準備を進める中、部長の千反田えるから、自主制作映画の試写会に誘われる。

その映画は、2-F組が文化祭向けに作成したものであった。

 

古典部の折木奉太郎、千反田える、福部里志、井原摩耶花の四人で試写会へと向かい、2-F組の入須冬美に従い、自主製作映画を観ることに。

しかし、その映画は、脚本家が体調不良となり、途中で途切れた未完成の作品であった。

伊須は、古典部のメンバーに映画の結末がどういう内容であったのかを推理してほしいと依頼を持ちかける。

奉太郎は、ほかの古典部メンバーから【探偵役】をすすめられるが乗り気になれず、逆に入須に問い返す。

「2-F組で解決することではないのか」と。

入須もそれに同意した上で、

「必要な技術のない人間にはいい仕事はできないということよ」

と述べ、2-Fだけでは解決できなかったとつげる。

また、今回古典部を呼んだのは、3人の人物から折木奉太郎のことを聞き、奉太郎ならいい案が出せるのではないかと考えたからだというのであった。

しぶる奉太郎であったが、千反田が解決に意欲を示してしまったこともあり、探偵役ではなく、オブサーバーとしてこの件に関わることになるのであった。

『古丘廃村殺人事件』、『不可視の侵入』、『Bloody Beast』

試写会のあと、地学講義室に戻った古典部メンバー。

午後になると、2-F組の江波倉子が案内役として、2-F組の生徒の意見を聞くことになった。

探偵役を買って出たのは3人。

それぞれが自分の推理を披露し、それぞれ『古丘廃村殺人事件』、『不可視の侵入』、『Bloody Beast』とタイトルがつけられます。

3日間に渡り推理を聞いた奉太郎たちであったが、どの推理も無理があり、すべて却下されることとなった。

味でしょう

3人目の推理を却下した古典部メンバーはそれぞれ家路に。

その帰り道、奉太郎を入須冬美が待ち構えており、

「少し、茶を飲むだけの時間を貰えないかな?」

と誘うのであった。

茶屋で奉太郎は、2-F組の推理はいずれも却下されたことを伝える。

入須はそうなるのではないかと思っていたと述べ、続けて、奉太郎なら探偵役が務まると思うこと、もう一度2-F組に力を貸し、映画の正解を導き出してほしいと頼むのであった。

しばらく葛藤をする奉太郎であったが入須の言葉を信じ、挑戦をすることになる。

『万人の死角』

翌日、奉太郎は入須への答えを得るために地学講義室へと向かう。

里志や伊原と議論を重ねていたが、所用で二人が立ち去ったあとも、一人推理を進める奉太郎。

そして、奉太郎は一つの結論を導き出す。

それは入須を満足させるに足るものであり、入須は奉太郎に礼を述べ、タイトルをつけてみないかと告げる。

奉太郎は、映画に『万人の死角』とタイトルをつけ、自身が探偵役を全うしたことに満足をするのであった。

打ち上げには行かない

夏季休暇が終了し、放課後地学講義室へと向かうと、完成した2年F組の映画を古典部のメンバーが視聴しているところであった。

3人は奉太郎が出した結論に対し、驚きをもって答えるが、その反応が思っていたものと違い違和感を持つ。

文集制作を進め、日が暮れたころ、伊原から奉太郎に疑問が投げかけられる。

映画の結論は面白かったがあれはすべての条件を満たしているわけではなかったということを。

奉太郎は伊原の言葉を受けて、なぜ忘れていたことがあったのか、いや自分の考えに合わなかったからと無意識に無視していたのではないかと自問する。

そこに里志が現れ、あの映画の結論が本郷先輩の考えのつもりなのか奉太郎に問いかける。

そうだと答える奉太郎に里志は、あれは本郷先輩の意図とは違うと断言する。

思ってもみなかった角度からの里志の見解に、奉太郎は間違っていないでほしいと思いながらも、自分の説が間違っていたと思い始める。

そして千反田からも、あの映画の結論は本郷先輩のものとは違うといわれる。

千反田は、最初から結論ではなく、本郷先輩のことが気になっていたと話します。

本郷先輩は脚本の見通しを持っていたのになぜそれを誰にも話さなかったのか、入須先輩は、本郷先輩の友人である江波先輩に聞くように頼めたのではないかと。

 

3人の言葉を受けてその日の夜、自室で考える奉太郎。

そこで気づいたのは、本郷先輩の真意は当てることができなかったが、果たして自分のしたことは失敗だったのかということ。

2年F組の視点で見ればそれは成功。

きちんとした脚本もでき、映画の仕上がりも上々。

しかし、千反田は満足をしていない。

自分は何を間違えたのかと自問をする。

答えがでないままふと目にしたタロットカードの本を見ているうちに奉太郎はあることに気づく。

翌日、奉太郎は入須と茶店で相対する。

エンドロール

チャット内での会話パート。

入須と本郷のやりとりでは、本郷の謝罪と本郷の意図した脚本ではなくなったが、完成してよかったというもの。

入須と折木供恵のやりとりでは、奉太郎に申し訳ないことをしたと素直に述べる入須。

そんな入須を、本郷を守ろうとしただけでなく、脚本のできが良くなかったから却下するためにしたのだろうという供恵。

入須があのプロジェクトを失敗させるわけにはいかない立場にいたという場面で供恵がログアウトして終わります。

最後に奉太郎と千反田。

本郷の本当の脚本についての推察を行い物語が終了します。

タロットカードと『愚者のエンドロール』の関係

『愚者のエンドロール』ではたびたびタロットカードが出てきます。

一番最初に出てきたのは、入須冬美のあだ名として、『女帝』。

その話から里志が古典部メンバーをタロットカードに当てはめようとします。

「まず、摩耶花は『正義』かな」

「『審判』と迷ったんだけどね。ほら、正義は苛烈ってのが相場じゃないか」

(米澤穂信『愚者のエンドロール』(『古丘廃村殺人事件』)より)

伊原に「じゃあふくちゃんはなんなのよ」と尋ねられると、

「僕?そうだね。『愚者』……いや『魔術師』かな。『愚者』は千反田さんに奉るよ」

(米澤穂信『愚者のエンドロール』(『古丘廃村殺人事件』)より)

さらに、奉太郎については、『力』であると即答し、『星』ではないかという千反田に、『星』も悪くないが『力』だといいます。

『愚者のエンドロール』の後半にその解釈が少し出ていたので紹介します。

『女帝』(入須冬美)母性愛・豊穣の心・感性
『正義』(伊原摩耶花)平等・公平・正義
『魔術師』(福部里志)状況の開始・独創性・趣味
『愚者』(千反田える)冒険心・好奇心・行動への衝動
『力』(折木奉太郎)内面の強さ・闘志・絆

これはぴったりと思う部分もあれば、これはう~んと思うところも。

『正義』、『愚者』、『魔術師』はとてもしっくりときます。

『力』は、奉太郎の表には出てこないけれど実際、〈古典部〉シリーズを見ているとよくわかる気もします。

ただ、『愚者のエンドロール』の中で、奉太郎が読んだタロットカードの本には、

「力」は、獰猛なライオンがやさしい女性に御されている(コントロールされている)絵に象徴されます

(米澤穂信『愚者のエンドロール』(打ち上げには行かない)より)

とあります。

里志が笑いながら『力』だといった理由がよくわかる一文ですね。

 

ちなみに、千反田が奉太郎を表した『星』には、直感や閃きといった神秘的な意味があるようです。

期待をされるということ

誰でも期待をされると嬉しいものですね。

誰も見てくれないよりも、見てくれている人がいると思えるとそれだけで頑張れるものです。

『愚者のエンドロール』の中でも、奉太郎はあまり映画の結末を推理することに乗り気ではなかった。

でも、伊須冬美に期待を寄せられることで考えてみようという気持ちになります。

 

奉太郎はうまく乗せられてしまったというところもありますが、これは日ごろの人間関係でも大切なことです。

期待ばかりではだめですが、そうした気持ちを一緒にいる人に伝えるのも大事です。

それによって頑張れるという人もいますし、期待にせよなんにせよ、相手に伝わって初めて意味を持つものです。

次巻の『クドリャフカの順番』では、期待の効能について、入須が語るシーンもあります。

このあたりの内容も、『愚者のエンドロール』を書いているときから頭の中にはあったのでしょうか。

海外作品のオマージュ

本作『愚者のエンドロール』は、アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート殺人事件』のオマージュだと言われています。

こちらの作品でも、刑事と7人の人物が事件の推理を披露するという作品ですね。

前作『氷菓』もその要素を取り入れつつ、1冊にまとめようとしたのが『愚者のエンドロール』であると、あとがきや『米澤穂信と古典部』のインタビューでも言及していました。

推理を披露するということ以外にも米澤穂信さんは共通点をさりげなく忍ばせています。

千反田がウイスキーボンボンを食べて酔っぱらってしまうシーン(【Bloody Beast】の章になります)。

『米澤穂信と古典部』では、これについて、

【ウイスキーボンボン】

千反田の古典部への差し入れ。千反田は7つ、奉太郎は2つ食べる。「これはアントニイ・バークリーの『毒入りチョコレート事件』の冒頭で食べた数なんです。倒れてしまった被害者は7つ食べて、助かった主人公は2つ。7つ食べた千反田は酔いつぶれる、と。誰もわからない遊びです(笑)

(米澤穂信『米澤穂信と古典部』より)

と書いてありました。

これはまったく思いつきもしませんでしたが、一読してわかった人はかなりのミステリーマニアですね!

米澤穂信作品ではこうした遊び心が多いのでそうしたポイントに注視して読むのも楽しいです。

「天は二物を与えず」?

『愚者のエンドロール』の導入部分が私はけっこう好きです。

奉太郎と里志が歩きながら会話をしています。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

「天は二物を与えず」

という言葉に対して、生まれながらに格差はあるし、二物を与えられている人物も当然いると言います。

 

でもその上で、

「天才は天才で、普通人の生涯は望んでも得られんことを思えば、そう羨ましいばかりでもないさ」

(米澤穂信『愚者のエンドロール』(試写会に行こう!)より)

とも奉太郎は言います。

私自身も、能力のある人や恵まれている人を見て、

「いいなー」

と思うことはありましたが、確かに恵まれている人には望んでも得られないものもあるのだなと考えさせられました。

才能があると思われる人にも、とうぜんその人なりの苦労も思いもあるということですね。

『女帝』入須冬美はいい人?

『愚者のエンドロール』を読むと入須冬美は、古典部メンバーも2年F組も手のひらで操り、自分の望む結果を手にしたように思えます。

作中で里志が、入須冬美が『女帝』と呼ばれていることを、

「美貌もさることながら、人使いが上手くて荒いんだそうだよ。彼女のまわりの人間は、いつしか彼女の手駒になる、ってさ」

(米澤穂信『愚者のエンドロール』(『古丘廃村殺人事件』)より)

と話します。

まさに評判通りですね。

最後の【エンドロール】でも、供恵から、本郷を守ろうとしたのもあるだろうが、脚本が詰まらなかったから今回の行動を起こしたのだろうといわれます。

それに対して入須は、自分は失敗させるわけにはいかない立場だったと言い訳をします。

このやり取りのとおり、失敗しそうなつまらない脚本を、波風立てずに却下し、成功できるだけの脚本を手にしたい。

だから今回のはかりごとを仕掛けたのでしょうか。

 

やはりそうではないと感じます。

結果だけみると、奉太郎は悔しい思いをしましたが、2年F組は無事にできあがって万々歳!

本郷も自分の脚本へのこだわりよりも、完成することの方を望んでいました。

文化部が主役の文化祭の中で、クラスとしてみんなで何か思い出を作りたい!

そんなクラスのメンバーの気持ちをどうにか叶えてあげたいという想いからであったのではないかなと思ってしまいます。

奉太郎たちが2年F組の探偵役の推理を聞いている間も、入須は結論が出たあとに脚本がかける人物を探すために奔走しています。

そうした真剣な行動からも入須がただ『女帝』と評されるだけの人物とは思えません。

 

上記したようにタロットカードの『女帝』の暗示は、母性愛・豊穣の心・感性。

作中で里志はあだ名といいましたが、このカードの当てはめも意味があるのでしょう。

表には出てこないものの入須はこの『母性愛・豊穣の心・感性』がつまった心優しい女性なのではないかと。

終わりに

『愚者のエンドロール』は、前作『氷菓』以上に、それぞれの個性が出てきていて親近感がわいてきますね。

特に奉太郎は、一歩下がったところから見ているような部分もあったため、少し我が出ていて、青春だなという気持ちになります。

自信、高慢、期待。

高校生くらいのころっていろんな刺激を受けて成長する時代なのだなと読みながら思い返されます。

次回作『クドリャフカの順番』はついに文化祭に突入します。