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当たり前は人の数だけ存在する。寺地はるな『川のほとりに立つ者は』

他人への理解って難しい。

偏見なんて世の中にはいくらでもあるし、障害があるとわかれば、それだけでその人のことをそれまでとは違った見方をしてしまう。

今回読んだのは、寺地はるなさんの『川のほとりに立つ者は』です!

これがね、またなかなか理解が困難なところを題材にしたなあと感じました。

障がいって聞くと、すごく重たいような気持ちになりますが、ADHDとかASDとか、割と人口に対する割合って多いんですよね。

でも、いざ目の前にそういう人がいたら、障がいだからって目で見てしまうなって思います。

ここでは、『川のほとりに立つ者は』のあらすじや感想を紹介していきます。

Contents

『川のほとりに立つ者は』あらすじ

カフェの店長を務める原田清瀬は、日々、残業と思い通りにならない従業員のことで忙しく過ごしていた。

新型コロナウイルスも重なり、カフェ自体の働き方も大きく変わっていく。

清瀬には、松木圭太という恋人がいるが、松木の隠し事が原因でケンカをし、そこから連絡を取らなくなっていた。

そんな中、2020年7月のある日、清瀬に病院から連絡が入った。

松木が怪我を負い、意識不明の重体になったという。

その現場にいた「まお」という女性によると、松木とその友人の樹が殴り合いの喧嘩をしていたというのだった。

それも、松木が一方的に殴っていたように思うと言われる。

清瀬は松木がやさしくて素直な人物だと思っているため、その話が信じられなかった。

松木の入院を松木の家族に知らせようと、合鍵を使って松木の部屋に入り、スマホから実家へと連絡をする。

すると、松木の親からは、自分たちはもう関係がないと突き放されてしまう。

更に松木のことを乱暴者であるといったことも言われる。

清瀬は、自分が松木のことをあまりよく知らないことに気づいて愕然とする。

いったい彼のことをどれくらい知っていたのだろう。

清瀬は松木の部屋で三冊のノートを見つけた。

そこには子どもが書いたような稚拙な字や、ある女性に向けた手紙のような文章が書かれていた。

やがて松木が清瀬に隠していたこと、事件の真相が少しずつ明らかになっていく。

誰にとっての当たり前か

『川のほとりに立つ者は』って、けっこう読んでいる人に、

「それって私もそういうところがあるかも」

と思わせる作品です。

カフェの店長を務める清瀬は、新型コロナウイルスも重なり、多忙な日々を送っています。

カフェの店員がみんなきびきびと動いてくれればまだいいのに、店員の一人である品川さんがどうにも気にかかる。

一日過ごしていれば何かしらの問題を起こすんです。

客が声をかけても、テーブルを拭くのに集中していて呼ばれるのに気づかない。

怒った客が、品川さんをつかみ、容姿に関する悪態をつくと、その場で泣き出してしまう。

「もうちょっとうまくやってよ」

と思ってしまうのは自然なことかもしれません。

清瀬は恋人の松木にそのことを話すと、ふだんは優しい松木が、意外と真剣な様子で、清瀬にできることでも、その人にとっては当たり前ではないのかもしれないという話をします。

ふと思い返してみると、自分の職場にだって、どうにも周囲の職員よりも、動きがうまくいかなかったり、ケアレスミスが多かったりという人がいます。

問題が起きる度に、

「またあの人は……」

と感じていましたが、その人にとっては、それが精いっぱいなのかもしれない。

障がいというもの

『川のほとりに立つ者は』では、のちに品川さんは、自身がADHDの診断を受けていることを明かします。

「もっと早く言ってくれればよかったのに」

という清瀬に、品川さんは、もし話していたら障がい者として扱うのかと怒ります。

これってすごく難しい問題だなって思います。

上記したうちに職場の人も、きっと何かしらの診断がつくとは思うんですよ。

でも、それがはっきりすることで対処が変わるかとそれもなかなか難しい。

「診断が出たから、これはやらなくていいよ」

と言われて素直に受け入れられるかといえば、当人もその周りも納得できるものなのかなって。

少なくとも、それまでは、

「ADHDっぽいよね」

って軽く流して済んでいた話さえも、はっきりとした障がいとして見られちゃうのかもしれない。

また、『川のほとりに立つ者は』では、ディスレクシアという障がいが重要な要素として出てきます。

なんとなく知っていたけど、改めてどういうものかを知ったのって初めてだったので割と衝撃でした。

ディスレクシアって、それ以外のところはふつうなのに、読み書きのみに困難をきたす学習障害のことなんだそうです。

一言でディスレクシアといっても、読みに問題がある人もいれば、書くことができない人も。

同じ書くことができない人でも、ひらがなはオッケーだけど漢字はダメ、とか、文字自体が理解できないとか様々なようです。

『川のほとりに立つ者は』の樹がこのディスレクシアで、本人は周囲にそのことを隠したがっています。

樹は、ひらがなも漢字もまともに書くことができない。

ふつうの人がなにも考えずに書ける文字を、自分の中で、別の意味に変換しないと正しい形がわからない。

自分だったらどう接するか

目の前にそうした障がいを持っている人がいるとして、自分だったらどう接するのか。

そんなことを考えさせられます。

一つは、今までと別に変らない。

自分は自分の仕事をするし、その人はその人で勝手にやればいいという態度。

もう一つは、積極的に、その人がうまく仕事ができるようにサポートしたり、体制を変えてみたりすること。

どっちが正しくて、どっちが間違っているって問題じゃないとは思うんですよ。

相手にも、状況にもよることで、でも私だったら前者になるのかなって。

たとえば、うちの職場の人がなにかしらの障がいを持っていたとしても、だからなんなんだろうって思ってしまう。

これは優しくないのかな。

できることとできないこと、得意なことと苦手なことがある程度わかるってことなのかなとは思う。

急に態度を変えるのは自分も相手も嫌なのではと思ってしまう。

もしも、相手が、こうしてほしいという要望があるのであればそれには対処するのかな。

でも積極的に、自分がその人のために何かをしようとは思えない気がします。

おわりに

全体的にそんなに明るい話ではないですが、かなり考えさせられる一冊でした。

他人への理解とか、誰かにとっての当たり前とか、そうそう簡単なものじゃない。

それでも、そこで理解し合えるのならそれは一つ、関係が前進するのかとも思う。

うーん、でもそれを家族とか身近な人ならともかく、他人に対してできるかといえば自信はないなって思います。

ちょっと自分の嫌な部分も見えてしまうような小説でもありました。