夏目漱石の後期三部作の一つといわれる『彼岸過迄』。
1910年に修善寺の大患と呼ばれる大病をわずらった夏目漱石が、復帰後に最初に書いた長編小説になります。
複数の短編をまとめあげる形で一つの長編とする手法が使われています。
視点が変わるため、やや読みづらい部分もあるのですが、さすがの心理描写!
『こころ』でもそうですが、人間の内面の描き方が秀逸ですよね。
ここでは『彼岸過迄』のあらすじや感想を紹介していきます。
Contents
『彼岸過迄』のタイトルの意味
あらすじに入る前に、この『彼岸過迄』というタイトル。
これは小説の中身とは関係がありません。
『彼岸過迄』の冒頭で夏目漱石自身がその理由を書いています。
「「彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名付けたまでに過ぎない実は空しい標題である。
かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長編を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。
が、ついそれを試みる機会もなくて今日まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。」
彼岸過ぎまで書く予定であったから『彼岸過迄』。
なんとも妙なタイトルの付け方ですね。
もしこの小説に別のタイトルをつけるとしたらなんだったのか気になるところではあります。
『彼岸過迄』の登場人物
田川 敬太郎(たがわ けいたろう)
『彼岸過迄』の主人公。
大学卒業後、仕事を探しているもののなかなか見つからず奔走することにやや疲れ気味。
いろんな経験をしている隣人の森本の話に興味を持っている。
友人の須永に田口を紹介してもらう。
須永 市蔵(すなが いちぞう)
大学卒業後、仕事をせずに過ごしている。
田口要作は父方の叔父であり、田口千代子が従妹。
松本が母方の叔父となる。
千代子とは付かず離れずの間柄でとてもじれったい。
田口 要作(たぐち ようさく)
須永市蔵の母の義理の弟。
須永から見ると叔父。
資産家でありいたずら好きの男。
須永の紹介で田川敬太郎の面倒をみることになる。
田口 千代子(たぐち ちよこ)
田口要作の長女。
しっかりと自分の意思を持った女性。
須永への想いを持ちつつもはっきりしない態度の須永に少しいらだつことも。
松本 恒三(まつもと つねぞう)
須永の母親の弟にあたる叔父。
田口要作から見ると義理の弟。
高等遊民と自らを呼び仕事はしていない。
割と世話好きで須永の相談にもよく乗っている。
須永の母
須永と千代子の結婚をとても望んでいる。
須永と千代子が小さい時から、田川にお願いをしたり、ことあるごとに二人を一緒にしようとする。
森本
田川敬太郎と同じ下宿に居た男。
冒険家であり、何でも屋であり、いろいろな地へと足を運ぶ。
下宿の家賃をかなり滞納して逃亡する。
『彼岸過迄』のあらすじ
『彼岸過迄』は、6つの短篇がまとまって長編小説となったものです。
〇「風呂の後」
〇「停留所」
〇「報告」
〇「雨の降る日」
〇「須永の話」
〇「松本の話」
最初の3篇は主人公である田川敬太郎視点で話が進んでいきます。
「雨の降る日」「須永の話」「松本の話」では啓太郎は聞き役としての立場になります。
ですので、「須永の話」あたりからは、
「主人公って敬太郎じゃなくて須永だっけ?」
という気持ちになっていきます。
「風呂の後」
大学を卒業して仕事に就けないでいる田川敬太郎。
仕事を探して奔走する日々に少し疲れてしまっていた。
そんなとき、同じ下宿に住む森本と話をする機会を持つ。
森本はさまざまな仕事を経験しており、敬太郎はそんな森本の話を興味深く聞くのであった。
しかし、突然、森本が姿を見せなくなる。
不思議に思っていた敬太郎であったが、下宿先の主人から森本が家賃を滞納したままいなくなったことを知らされる。
敬太郎宛に森本からの手紙が残されており、そこにはいなくなった経緯や、森本の残したステッキは使ってくれて構わないといった内容が書かれていた。
「停留所」
敬太郎の友人に須永という男がいた。
須永は軍人の子でありながら軍人が嫌いであり、法律を修めながらも役人にも会社員にもなる気がなかった。
須永にはためになる親族がたくさんおり、出世の世話をしてくれるというのに断っているという。
ある日、須永の家を訪ねると、一人の女が家にはいるのを目撃する。
敬太郎は、一目その後ろ姿を見ただけであったが妙に気になってしまう。
須永と女の関係はなんだろうと、家に入るかためらっていると、二階の障子が開き、須永が家に入るように促すのであった。
敬太郎は須永に、仕事の口がほしいので実業家の叔父を紹介してほしいと頼む。
敬太郎は、仕事は確約はできないが会うだけ会ってみてくれと叔父である田口要作を紹介してもらう。
なかなか都合がつかなかったが、ようやくのことで田口と会うことができた敬太郎。
仕事についてどういった希望があるのかと問われた敬太郎は、
「なんでもやります」
と熱弁をふるう。
数日後、田口から速達便が届き、今日の4時から5時の間に、小川町の停車場を40歳ほどの男が降りる、その男の電車から降りて2時間以内の行動を調べて報告しろという依頼を受ける。
敬太郎は難しい依頼だと思いながらもそれをこなすために何が必要かを考える。
停車場で男を探していると、以前須永の家の前で見た女が人を待っていることに気づく。
指定された5時を過ぎても男を見つけることができなかった敬太郎であったが、もう帰ってもいいところを女が気になりその場に残っていた。
すると、しばらくしてから女の前に車が停まり、中から依頼されていた人物と思われる男が出てくる。
二人は連れ立って食事をするために店に入り、敬太郎も後を追いかけていき、二人が帰っていくまでを調査するのであった。
「報告」
前日の調査の報告をしにいった敬太郎は、田口から、調査した男への紹介状をもらうこととなる。
教わった住所に向かった敬太郎であったが、「雨の降らない日においで願えますか」と断られ、改めて翌日男を尋ねることとなった。
そこで男は田口の義理の兄にあたる松本、女は田口の娘の千代子であったことを知る。
松本は自らを高等遊民と称して、働くことなく財産によって暮らしていた。
それでいて妻も子どももいる家庭的な生活を送っていることが敬太郎には不思議であった。
「雨の降る日」
敬太郎は、この田口のいたずらの件以来、田口の家の門をくぐることが増えていき、家族や書生とも付き合いを持つようになっていった。
そんなある日、敬太郎が最初に松本のもとを訪れたとき、雨が降っていることを理由に断れた理由を、千代子の口から聞くことになる。
それは、松本の末の娘が突然死んだことに由来するものであった。
松本には当時、男二人、女三人の子どもがおり、末の娘を宵子といった。
松本夫妻もこの宵子をたいそう大切に育て、千代子も松本の子どもの中で一番可愛がっていた。
しかし、そんなある日、松本は来客の応対をしており、千代子が宵子の遊び相手となっていた。
千代子が宵子におかゆをあげていると、突然、宵子がうつぶせとなり、どうしたのかと様子をうかがうとぐったりと動こうとしない。
すぐに医者を呼んでみてもらうが、宵子はそのまま亡くなってしまう。
その日は、曇った空から淋しい雨が降っていた。
それ以来松本は、雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が嫌になったというのであった。
「須永の話」
「須永の話」では、序盤、敬太郎視点で描かれていたものが途中から須永視点へと変わる。
『彼岸過迄』の中で最も長い章である。
敬太郎は、須永と千代子にいとこ以上の関係を見出すことができなかったが、彼の頭の中にはどこか、二人を一対の男女として認める傾向があった。
書生の佐伯から、二人には「複雑な事情」があると聞いた敬太郎は、直接須永から事情を聞くことにした。
須永の話は敬太郎が予想していたよりもはるかに長いものとなった。
須永は父親を早くに亡くし、母親と二人で暮らしてきた。
小さいころから母親のいうことによく逆らっていた須永は、大きくなり、女性に優しくするようになったが、それでも母親の言う通りにはなかなかならなかった。
須永の母親は千代子が生まれたときには、田口夫妻に将来、市蔵(須永のこと)の嫁にくれないかと頼み、田口も了承していたという。
それ以来、須永の母親は、須永と千代子の結婚を強く望んでおり、ことあるごとに二人を一緒にしようとしていた。
須永が大学二年生のとき、母親は千代子との結婚話を須永に突きつける。
断る須永であったが、母親は、千代子は自分が好きな子で、お前も嫌うはずがないのだから嫁にもらったらいいといい、しまいには涙ぐんでしまう。
そんな母親に対して強く出ることができず、須永は卒業するまでに解決しようとあいまいな態度をとるしかなかった。
須永自身も千代子のことを憎からず思っており、千代子も須永に好意を寄せているようであった。
しかし、須永は千代子を妻にすることはできないとの気持ちを固めていく。
「千代子が僕のところへ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない」
「彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人である。だから恐れる僕を軽蔑するのである。僕はまた感情という自分の重みでけつまずきそうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐れむのである。否時によると彼女のために戦慄するのである」
「松本の話」
『彼岸過迄』の最後の章であり、語り手が松本へと変わる。
須永と千代子の間がその後どうなったのかは知らないが、少なくともはたから見ていて変わった様子はない。
須永と千代子の件について、松本は両者から話を聞いており、それは二人が持って生まれた因果であるという。
須永は、松本と懇意にしており、松本の影響を大いに受けて育ったことから、松本は親類の者から暗に恨まれているが、松本自身もやましいところがあるから仕方がないと考えていた。
松本はある日、須永の母親から須永と千代子の結婚についての相談を受ける。
松本は須永と会い、千代子と結婚して母親を満足させる気はないかと問うが、須永は、母親を満足はさせたいいうが、千代子をもらうとは決して口にしないのであった。
須永は自分はなぜこうも人に嫌われるのかといい、叔父の松本だって自分のことを嫌っていると話す。
松本はそんな須永に、妙に一種のひがみがある、それがお前の弱点だと指摘する。
自分自身がひがんでいる理由がわからないといい涙する須永に、松本は須永と須永の母親とが本当の母子ではないこと、しかし、本当の母子よりもはるかに仲のよい母子なのであると伝えたのであった。
松本からこの話を聞いた須永は、それからしばらくしても気持ちの整理がつかなかった。
松本の後押しもあり、須永は母親のもとをいったん離れ、関西に一人で旅に出ることになる。
旅先から松本のもとへと須永の手紙がとどくようになる。
手紙は少しずつ、須永の気持ちが前へ向くようになると同時に、内側にばかり向いていたものが、世間へと広がっているように感じられるものであった。
決着がつかないままな印象の『彼岸過迄』
『彼岸過迄』を読んで思ったことの一つとして、多くのことがあいまいなまま終わっているなということです。
あえてそういう終わり方にして読者に先を想像させようとしているのでしょうか。
夏目漱石のほかの作品で見てみると、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』では、きちんときりがよい形で小説を終えています。
前期三部作である『三四郎』『それから』『門』では、いずれも物語の中で一応の区切りがついていました。
同じ後期三部作の『こころ』もそうですね。
それだけに、『彼岸過迄』では、須永と千代子の関係もあいまいなままな点が目立ちますし、主人公であった敬太郎も、いつも間にか傍観者のような位置づけになっています。
物語に入らないとただの探訪である
6つの章の最後に、数ページだけの「結末」があります。
そこの冒頭では、
「敬太郎の冒険は物語に始まって物語に終った。彼の知ろうとする世の中は最初遠くに見えた。近頃は眼の前に見える。けれども彼はついにその中に這入って、何事も演じ得ない門外漢に似ていた。彼の役割は絶えず受話器を耳にして「世間」を聴く一種の探訪に過ぎなかった」
敬太郎は、『彼岸過迄』の中で、森本の話、田口と松本の話、松本の娘の死、須永と千代子の関係、須永の母子の話と多くの物語を聞いてきました。
一見、その物語の登場人物たちと近づいたように見えますが、でも敬太郎はただ聞いていただけで、なにも身にはなっていない。
田口によってそれなりの位地を獲得はしたものの、あくまでそれだけであることが描かれています。
どういった意味でこうした「結末」を用意したのかはわかりませんが、私たちの生活においても、ただ聴いただけのものと、自らを行動させたものとでは全然違います。
自分自身が物語の登場人物にならないのであれば、それはただの探訪であり、傍観者でしかありません。
私自身の物語とはいったいどんなものなのか、どんなものにしていきたいかと少し考えさせられる作品でした。
おわりに
夏目漱石の後期三部作の一つ、『彼岸過迄』を紹介してきました。
かなり夏目漱石作品を読了してきましたが、その中ではちょっとすっきりとしない終わり方をした作品でした。
その分、想像を広げる余地は多く、それはそれで楽しめるのですが。
次は後期三部作であり、人気のある『行人』を読もうと思います。