芥川龍之介

【5分でわかる】芥川龍之介『蜘蛛の糸』のあらすじと物語が伝える意味とは?

「ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました」

これは、ある日本の小説の冒頭になります。

これだけでも、

「あの小説かな」

と気づく人がいるくらい有名な作品です。

 

今回紹介するのは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です!

小説としてはとても短いのですが、内容はとても深い。

ここでは、『蜘蛛の糸』のあらすじや意味するものを紹介していきます。

Contents

『蜘蛛の糸』のあらすじ

ある日の朝、お釈迦様が極楽の蓮池のふちを散歩していました。

池の蓮の間から、ふと地獄の様子を覗き見てみると、そこにはカンダタがいます。

カンダタという男は、人を殺したり、家に火をつけたり、いろいろな悪事を働いた大泥棒でした。

そんなカンダタもたった一つだけ善いことをしたことがあります。

それは、カンダタが深い林の中をとおるときに、地面をはっていく小さな蜘蛛を、踏み殺さずに助けたというものです。

お釈迦様は、地獄の様子を見ながら、カンダタのこの善行を思い出します。

その善行に報いるために、地獄から救い出してやろうと考えたのか、極楽の蜘蛛の糸を、蓮の間から遥か下の地獄の底へまっすぐに下したのでした。

 

こちらは地獄の底の血の池。

カンダタはほかの罪人たちといっしょに浮いたり沈んだりしていました。

あたりは静まり返っていて、聞こえてくるものといえば、罪人のかすかな嘆息ばかりです。

地獄に落ちてきた人間は、さまざまな地獄の責苦に疲れ果てて、泣き声を出す力もなくなっているのです。

さすがの大泥棒であったカンダタでも、血の池の血にむせながら、まるで死にかかったカエルのようにただもがいていました。

ところがある日、カンダタが何気なく頭を挙げて空を見ると、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、するすると自分の上へと垂れてくるではないですか。

カンダタはこれを見て手を打って喜びます。

この糸にすがりついてどこまでものぼっていけば、きっと地獄から抜け出せる、と。

そう思ったカンダタは、さっそく蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら一生懸命のぼっていきます。

順調にのぼっていくカンダタでしたが、地獄と極楽の間は何万里と離れており、容易にはたどりつけません。

とうとうカンダタも疲れてしまい、一休みしようと糸にぶら下がりながら下の方を見てみました。

一生懸命のぼった甲斐もあって、血の池はもう見えなくなっていました。

このままのぼっていけば、地獄から抜け出すこともわけないと喜ぶカンダタです。

ところが、ふと気がつくと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りない罪人たちが、カンダタののぼったあとをつけて、まるで蟻の行列のようによじのぼってくるではないですか。

これを見たカンダタは、驚いたのと恐ろしいのとでしばし呆然とします。

自分一人でも切れそうな細い蜘蛛の糸なのに、どうしたらあれだけの人数の重みに耐えられるだろうかと考えます。

カンダタは大きな声を出していいます。

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と。

その途端、今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタがぶらさがっているところから、ぷつんと音を立てて切れてしまいました。

カンダタもあっという間に地獄の底へとまっさかさまに落ちていってしまいました。

 

お釈迦様は、極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていましたが、カンダタが血の池に沈んでいくと、悲しそうな顔をしてまた歩き出していきます。

自分ばかり助かろうとした無慈悲なカンダタの心が、そうしてその心相当な罰を受けて地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様から見ると、あさましく思われたのでしょう。

しかし、極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことには頓着せず、ゆらゆらとゆれては何ともいえない良い香りを絶間なくあたりへかよわせています。

極楽も気づけば昼になっていました。

『蜘蛛の糸』から何が学べるのか

誰にでも良いところがあること

『蜘蛛の糸』からはたくさんの教訓が得られますが、その一つは誰にだって良い部分はあるということです。

カンダタはとんでもない悪党です。

殺人、放火、窃盗……。

大泥棒と呼ばれるくらいだから相当の悪行を重ねてきたのでしょう。

そんなカンダタでも、小さな蜘蛛の命を惜しんで殺さなかった。

お釈迦様は、そこを思い出して蜘蛛の糸を垂らして、チャンスを与えてあげたのでしょう。

人の一面だけを見てすべてを知ったと思うのではなく、そうでない部分にも目を向けることが大切です。

厳密にいえば、助けたといっても、最初からカンダタが踏もうとしなければ、蜘蛛も命を脅かされることはなかったんですけどね。

悪行に対しては報いがあること

一方で、『蜘蛛の糸』の中では、悪行に対しては明確に報いが与えられています。

地獄に落ちた罪人たち。

どんなことをした人たちなのかまではわかりませんが、血の池も針の山も、とても過酷な環境です。

たくさんの罪人がいるのに、あたりが静かで、ときおり嘆息が聞こえてくるだけ……。

どれだけ罪人たちが疲れ果てているのかがわかります。

因果応報という言葉のとおり、彼らが現世で行ったことの報いが与えれています。

 

カンダタはそんな中で、お釈迦様の慈悲により、蜘蛛の糸というチャンスをいただきました。

でも、自分のあとをついてのぼってくる罪人たちに無慈悲な態度をとってしまい、それゆえに、最後のチャンスであった蜘蛛の糸が切れてしまいます。

カンダタがもし、罪人たちにそんなことをいわずに、極楽を目指していれば、きっとそのまま辿り着くことができていたのでしょう。

人は簡単には変われないこと

さて、蜘蛛の糸というチャンスをもらったカンダタでしたが、残念な結果になってしまいました。

でも、そもそもお釈迦様はカンダタを助けようとしていたのでしょうか。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、お釈迦様は一言も言葉を発しません。

だからその心ははっきりとしたことがわからないんですよね。

だって蜘蛛の糸ですよ、そりゃ途中で切れてしまいそうです。

お釈迦様であれば、そんなことをせずともカンダタを助けることができたと思います。

もしかしたら、お釈迦様はカンダタを試したのかもしれませんね。

上記したように、人にはいいところもあれば悪いところもあります。

地獄で悔い改め、本当に反省をしていたのであれば、カンダタは罪人たちに無慈悲な発言はしなかったのではないかと思います。

でも、結局、カンダタは大泥棒だったころから何も変わっていませんでした。

その結果が蜘蛛の糸が切れるというものです。

人の変わることの難しさを伝えてくれているようにも感じます。

おわりに

『蜘蛛の糸』という話は、書いた人によってちょっとずつ違います。

私の記憶にあった『蜘蛛の糸』では、カンダタのあとをついてのぼってきた罪人たちは、もうカンダタに手が届くところまできていました。

カンダタは、落ちろといいながら、ほかの罪人を蹴落としていたんですよね。

このあたりは、著者によって解釈が違うものなのかもしれませんね。

こうした違いを見ていくのもおもしろいです。

芥川龍之介の『桃太郎』も、原作とかなり乖離しているので、読みごたえがあっていいなと感じます。