ドイツの哲学者であるショーペンハウアー。
数多くの名著を出したこの方ですが、読書好きとしてはとても気になるタイトルの本があります。
それが『読書について』。
著名なショーペンハウアーがいったい読書についてどんなことを語ってくれるんだろうとタイトルだけで気になっちゃいますよね。
私も、
「きっと読書の有用性についてたくさん書いてあるのだろう!」
とわくわくしながら読み始めたのですが初っ端から驚かされます。
「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ」
(ショーペンハウアー『読書について』より)
読書についてというタイトルでありながら、いきなり読書を否定するところから始まるんですね。
もうこれだけでその先が気になってしかたなかったです。
『読書について』はいくつかの出版社から翻訳されていますが、私が好きなのは、光文社古典新訳文庫のものです。
「自分の頭で考える」「著述と文体について」「読書について」の三篇からなります。
岩波文庫のものだと、「自分の頭で考える」→「思考」となっていたり、翻訳も少し違っていたりするので、自分好みのものを読むのがいいかなと思います。
実際に読みやすさでいえば、光文社古典新訳文庫はかなり読みやすい。
でも、古典を読むってなると岩波文庫の方が、翻訳の言葉自体が難しくて読みづらい代わりに多くの意味を含んでいるような印象があります。
そういった文体が好きな人は岩波文庫の方がいいかもしれません。
Contents
自分で考えることが大切である!
『読書について』でまず最初に主張しているのが、自分の頭で考えることの大切さです。
最初の章のタイトルどうりですけどね。
「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜吞みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。」
(ショーペンハウアー『読書について』光文社古典新訳文庫より)
ちなみに岩波文庫は下記のような訳し方になっています。
「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。」
(ショーペンハウアー『読書について』岩波文庫より)
同じ内容なのに雰囲気がかなり違って面白いですよね。
それは置いといて、この文章を読んで私はかなりどきりとさせられました。
「これは自分にとって役に立ちそうだな」
「この本はおもしろそうだな」
と、毎年たくさんの本を読んでいる私ですが、自分からの思索ってどれくらいやってきただろうかと考えてしまいます。
大学時代はそれでも、教育系のサークルに所属しており、よくメンバーと討論をしたりしていたので、自分で知識を吸収し、考え、自分なりの思考を生み出していました。
でも、社会人になって仕事が忙しくなると、ただただ本を読んで満足をしていた自分がいたかもしれません。
ふと、考えてみると、大学時代にそうして自分で考えたことって、今でも自分の行動の基礎になっています。
今も教育系の仕事に携わっていますが、大学時代に切磋琢磨して考えたことが、子どもたちに向き合うときに大いに役に立っています。
一方で、ただ単に本から知識を得ただけのことって、読んだ瞬間はすごく満足して、成長した気持ちになりますが、思ったほど実生活に活かされていないんですよね。
ショーペンハウアーのこの言葉のように、ただ鵜吞みにした知識では、真剣に自分で考え抜いたものにはかなわないのだと実感しています。
ちなみに、思考を除いても、うちの本棚はもう好きなだけ本を買ってきて溢れている状態なので、ちゃんと整理された本棚にしたいと思います。
本を読むとは他人の頭で考えること
冒頭でも紹介したショーペンハウアーの言葉。
「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ」
(ショーペンハウアー『読書について』より)
これもなかなかに厳しい言葉だなと思いました。
これって、
「本を読んだだけで満足してるんじゃないよ!そのままじゃなんにも身につかないよ!」
って言っているんですよね。
本を読んで知識を得たと思っていても、それは所詮他人が考えたもの。
決してそれだけで自分のものにはなっていないんですね。
そのあとにこんな言葉も出てきます。
「人生を読書についやし、本から知識をくみとった人は、たくさんの旅行案内書をながめて、その土地に詳しくなった人のようなものだ。」
(ショーペンハウアー『読書について』より)
これもまた痛烈!
読書自体にはとても価値があるし、自分の知らない世界を知ることができる素敵な存在です。
でも、ショーペンハウアーの言うように、直接自分が体験しているわけではないんですよね。
私も家族で旅行に行くときに、観光雑誌を買って、どんなものがあるのか、どうやって行くのかなんて調べてから出発します。
どんなものがあるって知っていても、写真や映像で見ていたとしても、やはり現地に行くと、これがそうなんだ!という感覚を味わうものです。
特定の仕事を題材にした小説も好きでよく読みますが、自分の業界の本があるとけっこうどきどきして読みます。
読みながら、
「うちの業界のことをよく調べているなあ」
とか、
「これはちょっと盛りすぎじゃないかな」
なんて思いながら読むのですが、実際に働いている人だからこそ、そのあたりの本当のことがわかり、小説を読むことで追体験ができます。
でも、例えば医療系の小説を読んでも、すごくはらはらどきどきさせられますが、実際のその場の緊迫感なんていうのは、本当の意味では理解できないのだろうと感じます。
ショーペンハウアーはただ読むだけの人で終わってはいけない、自分で考え行動し、ひねる出し得たものに本当の価値があると言っているんですね。
悪書ではなく良書を読もう
小説にしても、新書にしても、自己啓発や哲学の本にしても、中には良書も悪書もあります。
そういうと、どんな本にだって価値はあるんだ!その人の受け取り方次第だなんて思う人もいると思います。
私もどちらかというと以前はそう考える人間でした。
この本は今の自分にとって価値がないだけであって、別の地点では重要になるかもしれない……と。
でも、実際のところ、あまりいい本ではなかったと思ったものが後から良い本だったってことはほぼないんですよね。
ショーペンハウアーはまず、著者にも二種類がいると指摘しています。
「まず物書きには二種類ある。テーマがあるから書くタイプ と、書くために書く タイプ だ。第一のタイプは思想や経験があり、それらは伝えるに値するものだと考えている。第二のタイプはお金が要るので、お金のために書く。書くために考える。」
(ショーペンハウアー『読書について』より)
書きたいものがあるから書く人。
こちらは自身の思想や経験を価値あるものとして伝えようという使命感を持った人たちです。
こうした人たちは、読者に有益なものを与える。
一方で書くために書く人。
書いてお金を稼ぐことが目的になっている人もいると言います。
こうした人たちは、読者のことを考えておらず、やたらと文字数を稼ぐことに熱心になり、過去にあった良書をなぞるだけの本を量産する。
そのことによって、本当に価値があった良書がそうした悪書に駆逐されてしまっているとも指摘しています。
悪書の問題点についても、
「悪書から被るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読みすぎることはない。悪書は知性を毒し、精神をそこなう。良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから。」
(ショーペンハウアー『読書について』より)
と主張しています。
健全な生活が健全な精神を生み出すのと同じように、良書はその人の精神を高め、悪書は精神を損なうというわけです。
実際に世の中にはありとあらゆる書籍が乱立しています。
本屋さんに行けば、一つのテーマに対して、何十冊といった数の書籍が存在しますよね。
このところ、どうも似たようなタイトルばかりが目につき、読んでみるとどこかで聞いたことがあるような内容ばかり。
場合によっては、過去の名著を数段階落としたようなものだってあります。
人って、ふだん触れているものによって、その在り方が変わるものです。
音楽だとわかりやすいですよね。
クラシックを好んで聞く人は、落ち着いた大人な雰囲気を醸し出すようになりますし、ラップを好む人は、身に付けるものや趣味嗜好もそちらに近づいていきます。
本だって同じです。
ふだんどんな本を読んでいるのかによって、考え方や信念、生きる上で大切にしているもの、更に言えば自身の外見や生活態度だって変化するものです。
そう考えていくと、今読んでいる本が果たして自分に何をもたらしているのかと考えてみるのもおもしろいかなと思います。
読書はなんだかんだいって良いもの
ショーペンハウアーの『読書について』を読んでいると、
「ショーペンハウアーって読書を否定しているのかな」
という気持ちにさせられることもあります。
読書よりも考えることが大事だって言ったり、読書は他人の考えをなぞるだけだって言ったり。
でも、よく読んでいくとそうではないんですよね。
読書をして満足をしている人や、それでわかった気になっている人がいること。
お金を稼ぐことが目的になって、心から書きたい本を生み出している作家が少ないこと。
良書がそうした悪書によって追いやられていること。
そうしたことへの危惧を提示してくれているのだと感じます。
この『読書について』を読むと、自分の本に対する向き合い方まで考えさせられます。
とにかく目につくものを片っ端から読んでいなかったかな。
たくさん読むことに意識が向いていなかったかな。
読んだ上で、自分の頭でちゃんと考えていたかな、と。
そうしてみると、今度は自分が本を読むときに、いつも以上に深く読み込めるようになっているから不思議なんですよね。
これこそが良書に出会うということなのかもしれません。
本が私たちにもたらしてくれるものは多くの可能性であり、思考であり、生きる力でもあるといつも思っています。
だったらそれを以下に私たちが受け取り、かみ砕き、昇華していくか。
これからも良き本と出会い、価値ある時間を堪能していきたいです。