芥川龍之介

【5分でわかる】芥川龍之介『猿蟹合戦』のあらすじ・感想。私達は蟹であってはならない。

有名な昔話の一つである猿蟹合戦。

これにもいろいろな解釈がありますが、この人の猿蟹合戦はやはり一味違う!

今回紹介するのは、芥川龍之介『猿蟹合戦』です!

ふつうの猿蟹合戦では、親蟹の仇を取ろうと、子蟹と臼、蜂、栗たちが猿をやっつけるというものです。

しかし、芥川龍之介の『猿蟹合戦』では、そのかたき討ちのその後を描いているんですね。

子どもたちは知る必要のない猿蟹合戦のその後、それがまたおもしろい。

ここでは『猿蟹合戦』のあらすじや感想を紹介していきます。

『猿蟹合戦』のあらすじ

猿を殺して仇を取った蟹たち。

その後、蟹たちは太平無事な生涯を送ったのかと思われるが、実際はそうではない。

彼らは仇を取ったあと、警官に捕縛され、監獄へと入れられたのだ。

しかも、裁判の結果、主犯の蟹は死刑、臼、蜂、卵等の共犯は無期徒刑の宣告を受けることになった。

蟹の供述によると、蟹と猿は握り飯と柿を交換した。

だが、猿は熟した柿を蟹に与えず、青柿ばかりを与えただけでなく、蟹に傷害を加えるように散々その柿を投げつけたという。

しかし、

〇猿と蟹の間では一通の証書も取り交わしていない

〇握り飯と柿を交換したが、熟柿とは特に断っていない

〇青柿を投げつけられたというが、猿に悪意があったかどうかの証拠は不十分である

このことから、蟹の弁護士も、裁判官の同情を乞うよりほかに策はないという。

弁護士は気の毒そうに、

「あきらめ給え」

というが、それは死刑の宣告を下されたことを言ったのか、弁護士に大金を取られたことを言ったのかは誰にもわからない。

また、新聞雑誌の世論も蟹に同情を寄せたものはほとんどなかった。

蟹の猿を殺したのは私憤の結果にほかならない。しかもその私憤たるや、己の無知と軽率とから猿に利益を占められたのを忌々しかっただけではないか? 優勝劣敗の世の中にこう云う私憤を洩らすとすれば、愚者にあらずんば狂者である。

(芥川龍之介『猿蟹合戦』より)

識者の間でも蟹の仇打ちは評判が悪かった。

ある大学教授は、論理学上の見地から、蟹が猿を殺したのは復讐の意志によるものであり、復讐は善とは称し難いと言う。

ある社会主義者は、蟹は柿や握り飯という私有財産をありがたがっていたから、臼や蜂や卵なども反動的思想を持っていたのだろうと言う。

ある宗教家は、蟹は仏慈悲を知らなかったのだろう、知っていれば猿の行いを憎む代わりに、それを憐れんだであろうと言う。

といった具合に、蟹の行為に対して不賛成な意見ばかりがあがっていた。

そんな中、酒豪兼詩人のある代議士だけが、蟹の仇打ちは武士道の精神と一致すると称した。

しかし、そんな時代遅れの議論は誰の耳にも止まらなかった。

更に、その代議士は数年前に動物園で猿におしっこをかけられたことを遺恨に思っていたと言われていた。

おとぎ話しか知らない読者であれば、悲しい蟹の運命に涙を落とすかもしれないが、蟹の死は当然である。

それを気の毒と思うのは、センティメンタリズムに過ぎない。

現に蟹の死刑が行われた夜、判事、検事、弁護士、看守、死刑執行人、教戒師等は、四十八時間熟睡したそうである。

 

蟹が死んだあと、残された者たちはどうなったのか。

蟹の妻は、貧困のためか、本人の性堕のためか売笑婦となった。

蟹の長男は株屋の番頭をしている。

次男は小説家となり、「善は悪の異名である」などといい加減な皮肉を並べていた。

三男は蟹よりほかになれるものがなかった。

とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の読書に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ。

(芥川龍之介『猿蟹合戦』より)

元の猿蟹合戦と正反対の結果

昔話の猿蟹合戦は、悪いことをした猿が、蟹たちのやっつけられる勧善懲悪の物語です。

正義は勝つ!悪いものはこらしめられる!というやつです。

悪いことをしたから罰があたるという因果応報とも読めますよね。

さらに、蟹たちが一人一人では猿に太刀打ちできないけれど、それぞれの強みを活かしてやっつけるところから、適材適所や団結を意味するところもあります。

昔話だけを読むと、猿は悪いやつ、仇を取った蟹たちはえらい!となります。

そしてなんとなく、蟹たちは幸せに暮らしたのかと思いきや、実は逮捕されていたというのです。

幸せな生活……どころか、まさかの死刑と無期刑に処されていました。

そして残された家族も悲惨な生活に。

家族の無念を思っての仇打ちが、自分も家族も苦しめる結果になったと。

蟹はどうすればよかったのか

では、猿の理不尽に対して蟹はどうすればよかったのでしょうか。

『猿蟹合戦』にあるように、証書の一つも交わさず、猿の言葉をうのみにして騙された蟹が悪いのでしょうか。

昔話の読者なら、

「蟹が悪いのではない!悪いのは猿だ!」

と思いますよね。

でも、現実にじゃあ残された子蟹たちに何ができたのか、どうアドバイスできるのかというと何もありません。

「猿は悪い!でも復讐なんていけないよ。自分たちの未来のことを考えよう……」

「猿のことは警察に任せよう」

なんていうのが関の山です。

現実的には、泣き寝入りするしかないのだと思います。

不幸なことがあったと忘れるしかない、なんて冷たい現実でしょうか。

でも、社会の秩序を保つ上では、それがふつうでもあるのかなと感じます。

蟹になってはいけないということ

物語の最後、

「君たちもたいてい蟹なんですよ。」

と芥川龍之介は締めくくっています。

これって、私たちに蟹でいることをよしとするなと訴えているようにも感じます。

蟹になってしまえば、上記のように何か悲しいことが起きてもどうすることもできない。

蟹の三男は、結局蟹にしかなれなかった。

その三男のところには、親蟹と同じように大きなおにぎりとそれを狙う猿が現れます。

その先は書かれていませんでしたが、同じことが起きると芥川龍之介は言っているのでしょう。

じゃあ蟹にならないためにはどうすればいいのか。

それには考えることです。

単純ですが、自分で考え、自分で決めて、自分で行動する。

猿のような他人を信用するなということではなく、それでいいのかを見つめ直し、賢く生きなければいけないと感じます。

蟹のように、柿の種をありがたがり、柿の成長を無邪気に喜ぶ生き方も素敵なものです。

ただ、それだけではどこかで墓穴を掘ってしまうかもしれません。

理不尽に負けないためには、ルールの内側でそれをよく知り、行動を決めていく必要があると思います。

仇打ちや復讐は恐ろしいもの

昔話の猿蟹合戦は仇打ちの物語です。

こうした”復讐”をテーマにした小説って世の中に結構ありますよね。

法律の中で裁くべきところをそれではよしとせずに、自分の手で加害者に罰を与えたいというものです。

『猿蟹合戦』も、現実であればみんなで猿をやっつけるのではなく、証拠をそろえて司法の場に訴え出るのが通常なのでしょう。

でもきっと、『猿蟹合戦』にあるように、証拠もなく、猿が悪意を持って青柿をぶつけたかわからない。

有罪になっても、傷害致死あたりでおさまり、執行猶予付きで釈放なんてことにも。

そんな結論では納得できないからこそ、蟹たちは強行策に出たのかもしれません。

別の小説になりますが、東野圭吾さんの『さまよう刃』でも、被害者の父親は、犯人が特定できているのに、未成年だからたとえ捕まっても、少年院で1、2年もすれば社会に戻ることがわかっていた。

だからこそ犯人を隠して、自らの手で復讐を果たそうとしました。

倫理的、社会的には問題だけど、心情的にはわからなくもない。

だからこうした小説というのは多くの人に読まれていくのだと思います。

とはいえ、それを是とする世の中になってしまえば、秩序もなにもあったものではない。

そして復讐を果たしたとしても、それは自身の未来を閉ざすことをも意味しています。

また、猿蟹合戦では、蟹以外に、本来関係ない臼や蜂や栗たちも参加しています。

義憤にかられてといえば聞こえはいいですが、当事者ではないのにそこに乗っかっていく姿が少し恐ろしいものがあります。

社会でも、本来関係ないのに、「それは許せない!」と思い、集団で誰かを責め立てることってよくあります。

復讐とか仇打ちが、そうした人たちの行動を駆り立てる理由になってしまうというのも一つ恐ろしいところだと感じます。

おわりに

『猿蟹合戦』が実際に意味するところはよくわかりません。

短い話で解説本なんかも見かけない物語なんですよね。

だから人それぞれ感じ方、解釈はあっていいのかなと。

この短い話の中だけでも、いろんな考えが浮かぶから芥川龍之介はすごいなと改めて感じさせられます。

先日、記事を書いた『桃太郎』でも感じたことですが、昔話を昔話として、小説を小説として、ただそのまま受け取るのでは自身の停滞なのだと思います。

おもしろかったなで終わってもそれはそれで楽しくていいのですが、どうせならその一歩先に踏み出せると、それが自分の力になるのかとも思います。

芥川龍之介の『猿蟹合戦』や『桃太郎』はそういった意味でもよい教材だと感じました。

日本の文豪と呼ばれる方たちの作品には、そう呼ばれるだけの価値がある。

私も網羅できていないので、これからも時間を見つけて少しずつ読み進めたいと思います。