小説

善と悪は相反するものなのか。『誘拐劇場』潮谷験

私の職業がら、少年犯罪というものを扱うことは多い。

ここ数年で見ていくと、少年による薬物の使用というのは私が働き出した頃に比べて随分と増えたように感じる。

SNSの普及とともに簡単に手に入るようになり、興味本位で試してしまうのだ。

友人と遊び半分でという人も少なくない。

中学生でも使用する少年が出てきて、どんどん薬物使用も低年齢化している。

そんなことを感じているときに、潮谷験さんの『誘拐劇場』を読む機会に恵まれた。

潮谷験さんは『スイッチ 悪意の実験』、『名探偵再び』、『時空犯』といった良作をたくさん出している作家だ。

『伯爵と三つの棺』はYouTubeの『ほんタメ』でも紹介されていた。

今回読んだ『誘拐劇場』の舞台は、近畿地方のベッドタウン――物語中では「水倉地区」と呼ばれる、いわば郊外ののどかな住宅地だ。そこではじめ、小学生が合成麻薬――ペーパーアシッドこと「バニッシュ」を摂取するというショッキングな事件が起きる。

被害者が小学生という点で、強い衝撃を受けるとともに、そこまで現実離れしていることではないと思う部分もあった。

この麻薬汚染問題に対し、県では薬物撲滅キャンペーンを実施。

そのイメージキャラクターに、かつて水倉地区を舞台とした映画で人気を博した師道一正が抜擢された。

公衆の前では清廉なイメージをまとい、人々を惹きつける彼は、県警の刑事・義永誠と協力し、麻薬事件の真相に迫っていく。

初動としては、薬物事件をめぐる“正義の追求”――という構図である。

義永達の尽力と師道の活躍により、バニッシュを広めた犯人は特定され事件は収束される。

事件が解決されると、師道はその名声で議員となり、のちに水倉地区を地盤として国政にも進出する。

その華々しい栄光の裏で、少しずつ「黒い噂」が囁かれはじめる。

師道が水倉地区を麻薬の取引場所にして、表だけでなく裏の世界も支配しようとしているというものだ。

元子役の支倉彼方は、師道が清廉潔白な人間ではないのではないかと疑念を抱き、師道の様子を伺うようになる。

同じく、師道の裏の顔を暴こうとしていた義永の娘である真理子と協力し、仲間を集め、位置情報アプリ「MK2」を使って、水倉丘陵のどこかに隠された“秘密”を探り始める。

ところが、その探査を始めた矢先――“誘拐事件”が起きる。

そこから物語は、麻薬事件 → 政治の闇 → 誘拐という形で、二転三転としていく。

Contents

感想と考察

1. 冒頭の強烈なインパクトと設定の巧みさ

物語の幕開けが「小学生による麻薬事件」という点で、読者としてまず心を揺さぶられる。

大学生の麻薬事件であれば問題ではあるが珍しくもない事件として見られるが、小学生という幼い命が脅かされることは、それだけで社会への鋭い問いかけとなる。

それを受けて、「麻薬撲滅」「正義のヒーロー(俳優兼探偵)」という構図は、一見分かりやすい。だがその単純な“善 vs 悪”の構造にすぐ疑問符がつく――それがこの作品の巧みな導入だ。

また、単純に犯人を追うのではなく、位置情報アプリ「MK2」が物語の鍵になるという設定も、単なる古典的なミステリーではなく現代社会のリアルとリンクしていて、物語に没入させられる。

2. 読ませる仕掛け――先が読めない展開とミスリード

物語はしばしば読者の「予想」を裏切る。

最初は師道という「清廉な俳優探偵」が正義を体現するかのように描かれるが、その後、状況は急転。政治家として再登場した師道に、次第に暗い影が差す。

師道が姿を現すたびに、すべてを把握されているような焦りを読んでいて感じさせられた。

誘拐事件が本格化すると、ただの犯罪ミステリーとしてだけではなく、「人質/犯人/救出グループ」という“ゲーム性”を持った展開へと変貌する。

この変化のテンポが速く、読者の心拍は高まり続ける。

誰が真犯人か、誘拐犯の目的は何なのか。

多くの疑問と疑念がいくつも浮かび上がって、終盤まで何度も心が揺さぶられた。

3. 善・悪・正義――揺らぐ価値観と社会への問い

この作品を読んで最も刺さったのは、「正義とは何か?」「善人とは誰か?」という問いだ。冒頭の麻薬事件で純粋に「悪」は明示される。

しかし、それを解決したはずの人物――俳優師道や協力する刑事――が、その後怪しく映るとなると、「正義の味方」が必ずしも正義ではないかもしれない、という不安が読者に残る。

また、政治家という「公の顔」を持つ人間の裏に潜む闇。

名声や人気、経済力――そういったものが人の倫理感や本性を隠す仮面になり得る、という社会のリアルな描写は、この作品を単なる娯楽ミステリー以上のものにしている。

「誘拐」というショッキングな行為が、ただの犯罪ではなく――人間の欲望、権力、倫理のねじれのなかで構造化されること。読後、自分がどこに立つのか、どう信じるのか――その問いが重く残る。

4. 感想

本書の長所は明確だ。まず、物語の展開力と構成の技術。冒頭の衝撃から入り、ミステリー、サスペンス、心理劇、社会劇――複数ジャンルを跨ぎながら、それでも読者を惹きつけ続ける。「手に汗握る」「ページをめくる手が止まらない」という読書体験をしっかり保証してくれる作品だと思う。

また、テーマの重さとその扱いも興味を惹いた。

ただの娯楽に留まらず、社会への違和感や価値観の揺らぎ、人間の“闇”を真正面から描いている。そのため、読了後も単なる「オチがすごかった」で終わらず、自分の内面と価値観を見つめ直すきっかけになり得る。

一方で、後半の謎の複雑さや複数のテーマや構造の“過密”さは、読者の集中力と想像力を大きく要求する。

軽くエンタメ作品として読みたい人にとっては少し重たい作品かもしれない。

また、「政治家の暗部」「裏社会」「情報操作」など、現代的テーマを多く詰め込んだ結果、いささか情報量過多で読み終わったあとにどこに焦点を当てて整理すればいいのかちょっと迷う部分もあった。

興味深かった点としては、善悪があるにも関わらず、どちらにも傾倒することができなかったことも挙げられる。それによって読後に残るのは、感情的な満足というよりは思考と違和感だった。

師道というカリスマ性を持った登場人物も欠かせない。

これまでも引き込まれた作品の多くに魅力的な登場人物がいた。

一見、完璧で清廉潔白な人物に見えて、その陰に何かを隠している、一読者として何がそこにあるのかと注視したくなった。

『誘拐劇場』は、ミステリー/サスペンスとしての巧みさと、社会的なテーマ、人間の心理という重みを兼ね備えた作品だ。

エンターテインメントとしての読了感だけではなく、読後の思索を呼び起こす――それがこの作品の魅力だと思う。一方で、その構造の複雑さやテーマの重さは、人によっては好みが分かれるだろう。

軽く読める作品ではない。だが、物語に“問い”を求める読者にとっては、強く心に残る一冊だ。